“東洋一さん”との鮒つり顛末記
(4/12/05)


 毎年、4月になると隣りの町の俳人、“東洋一”さんから葉書が届く。この10年間欠かさずにくれる。便りの内容は鮒釣りである。1週間続くこともあるし、10日のこともある。池の有様から、釣果までさまざまで、当然俳句が添えられている。文面がユニークなのは、東洋一さんの気性からして当たり前だが、葉書そのものが赤、白、黄色などだけはでなく10種類くらいもあり、郵便配達屋さんも驚くだろうが、私はいつもこの色彩豊かな葉書を受け取って、春が来たことを知らされる。はじめの数年は、釣りの誘いがしたためられていたが、一度、同行する約束を破ったので、以後、知らせのみになってしまった。20年間あまり、1年中池に通い続けている東洋一さんによると、その池の鮒が釣れる時期は4月1日から10日頃までに限られて、あとの期間は外来種の魚しか釣れないらしい。理由は知らないが、毎年そう書いてある。
 今年は珍しくいつもの葉書が3月半ばにやってきた。3月15日から鮒が釣れるようになったとある。春の陽気に誘われたせいか、私も今年は“東洋一さん”に付いていきたくなった。気が変わらないうちにと、返事を書いた。早速「よっしゃ」と返事がきた。
 4月3日の日曜日と決めた。春にしては風が冷たく、寒い日だった。アノラックを着て待ち合わせのD病院前にいった。東洋一さんも沢山着こんで重装備である。東洋一さんがトコトコ走る単車のあとをついていった。農道から左折して車がやっと通れるクネクネした小道を通ると、右側は英虞湾の入り江、左の潅木林を抜けた所に以前は田の貯水に使った目的の池に辿りついた。鶯のさえずりがしきりに聞こえてきた。あとは何の鳥か分からぬが数種類の鳥が鳴いていた。
 早速、釣りの支度にかかる。竿から餌もなにからなにまで東洋一さんまかせである。私は云われたとおり、折りたたみの椅子を持ち運動靴を履いてきただけである。餌は小麦粉に何か混ぜてある。他の魚釣りはともかく、鮒釣りは小学校以来である。見よう見まねで、池に糸を投げた。私の仕草をみて東洋一さんは、「こりゃ、面倒がかからぬワイ」と安心した様子であった。釣り針は返り(逆鉤)がついていない優しい針で、釣ったらレリースする(池へ放流する)やり方である。無駄な殺生はしない方針らしい。釣ってうれしかったのは、鮒は真鮒でなく、へら鮒である。大きいから、手ごたえがある。返りが無いから、針にかかった鮒との緊張を一定に保っていないと、逃げられてしまう。東洋一さんは、そこをわきまえていて、逃げられた鮒は0.5匹に計算する。2匹かかっても、釣り上げられずににげられたら1匹釣ったことにして数えている。
 釣りがはじり、私にあまり手間がかからぬことが分かったら、東洋一さんが自分史を語ってくれた。歳は85くらいだろう。若い頃、戦争で満州に行って肺結核に罹り、三重の津の病院に入院して手術を受けた。今は戦友会にでたり、亡くなった友達の遺族の供養に方々訪れていると言う。戦争体験や病院生活も詳しく語ってくれた。戦病者手当てを支給して貰っているので、このようにのんびりやっていられるとのこと。亡くなった戦友を思うとこの歳まで生きた自分はあとの未練は無いという。本心で云っていることがわかる。
 しっかりしたしゃべり方だが、咳をしょっちゅうして、むせながら話す。タバコはいっときも離さないヘビースモーカーである。歩くのはしっかりしているが、単車の操作は心もとない様子も窺われた。現に、一度、転んだが、ショックを感じないように転んで、柔道の受身みたいなものでなあと笑っている。タバコはあなたに良くないよと咽喉元まで出かけたが止めた。本人はわかりきっている筈である。単車でこのデコボコ道を乗りまわすと、池に落ちたらおぼれそうで、気になったが、これも、本人はご承知の筈である。私が口に出すのは、僭越というものだ。いわゆる、悟りきった人である。余分なことは言うと失礼だ。そう、感じた。
 2時間くらいの間に、20cm〜30cmくらいのへら鮒を、東洋一さんは、5.5匹、私は2匹(1匹釣り、2匹逃げられた)釣った。証拠に写真をしっかりと撮って来た。今から、来春が楽しみである。